手で砂をさらったりして、何かを得た気になる。
大体そういうものは、遅かれ速かれ有り触れたものだと気づき、特別なものではないと知るだろう。
しかし、砂をさらうのには体力を使う。これは地道に己を育てる事で素養となる。より多く砂をさらう事ができる様にもなるし、いずれ土を抉る事も出来る様にもなるだろう。
素養とは、その砂をさらおうとする事の必然性に気づいている事である。素養のない人は、何かを得る為に、その砂をさらおうとする事自体に気づかない。
素養のある人はある時、砂をさらう手についた砂鉄のごとき何かに見つける時が来る。この砂鉄の様なものは良い経験である。有り触れた砂の中から砂鉄を見出す時というのは、その人にとって今までにない経験を得た時である。
これを繰り返して行くと力の存在に気づく事がある。その力とは、己の中にある砂鉄を引き寄せる磁力の様な力である。最初は微々たるものだが、やがて段々とその力を中心に、より効率よく経験を吸い寄せる事が出来る様になっていく。そうなった時、これを資質と呼ぶ。センスや才能と言い換えても良い。
資質とは、そのさらった砂からより多くの砂鉄を見つける事ができる力である。資質のない人は、どれだけの砂をさらおうと得られる経験は少ないし、そもそも経験する事自体が出来ない。
資質には個人差がある。努力して砂鉄を引き寄せる人もいれば、何ともなしに砂金を拾い上げてしまう人もいる。それは天才と呼ばれる人の事であり、仕方がない事だ。どれだけの素養を得たとしても、望む資質が身に付かない事もある。
しかし、経験は嘘をつかない。いずれ自分の資質が別物だった事に気づけば、手に付いたものが砂鉄ではない別のものだと気づくだろう。
砂をさらう事は無意味ではない。素養も資質も、砂をさらう事から始まるのだ。